渡辺大氏×大鶴義丹氏が語る、“好き”を原動力に続ける力【キャリア・ダイアログ ─ プロの仕事術 ─ vol.03】

渡辺大氏×大鶴義丹氏が語る、“好き”を原動力に続ける力【キャリア・ダイアログ ─ プロの仕事術 ─ vol.03】

黒澤明監督の名作を舞台としてよみがえらせる『醉いどれ天使』。混沌とした戦後を生きる人々を通して、“人間の生命力”を描く本作に挑むのは、俳優・渡辺大さんと大鶴義丹さん。

映像と舞台の両軸でキャリアを積み重ねてきたお二人が語るのは、華やかな成功談ではなく、作品と真摯に向き合いながら「好きだから続けてこられた」という日々の積み重ねです。

親から受け継いだ表現への思い、時代の波をくぐり抜けてきた俳優としての覚悟、そして合理的な時代にあっても信じ続ける“人間の力”。

舞台という“生きる場所”を通して、二人が見つめる仕事観と人生観とは――。変化の時代をしなやかに生き抜くヒントを、すべてのビジネスパーソンに向けて語ります。

名作『醉いどれ天使』への敬意と、新たな舞台への挑戦

――お二人が出演される『醉いどれ天使』は、黒澤明監督と三船敏郎さんが初めてタッグを組んだ伝説の作品の舞台化ですが、出演が決まった時はどのようなお気持ちでしたか。

渡辺
黒澤明監督による名作映画の舞台化に参加できるということ自体、非常に光栄に感じました。この作品が三船敏郎さんと黒澤監督の初めての出会いの作品だったと知り、驚きもあります。映画で志村喬さんが演じられた役を自分が担うというのも、身の引き締まる思いでしたし、「ああ、そういう作品をやらせていただく年齢になったのだな」と、しみじみと感じました。

とはいえ、稽古に入ってみると、自分の中では想像以上にエネルギッシュな真田が生まれていて、そこにすごく刺激を受けています。年齢的な落ち着きと、役としての情熱。その両方を大切にしながら、今はそのギャップを楽しんでいるところです。

――大鶴さんはいかがでしょうか。

大鶴
黒澤作品という響きには、やはり特別な重みがあります。俳優として名作の世界に立てるというのは本当に光栄なことですし、身が引き締まります。それに、今回の舞台となる明治座には、私自身初めて立たせていただきます。「いよいよ自分もこういう場所で演じる時が来たのか」と感じました。

小劇場などでの経験は多くありますが、明治座のような大きな舞台で、しかも黒澤作品を演じられるというのは、俳優としてとても感慨深いことです。

役柄へのアプローチ――戦後を生きる人々の絆と対立をどう描くか

――本作で渡辺さんは、酒好きで毒舌な町医者 真田、大鶴さんは闇市を支配する若いやくざ・松永の兄貴分 岡田を演じられますが、それぞれどのように人物像を構築されていらっしゃいますか。

渡辺
この作品が公開されたのは、戦後間もない1948年。終戦からわずか3年後のことです。当時の日本の状況を考えると、本当に鋭く現実を切り取った作品だったのだと思います。私たちは今、その時代の背景を思い返しながら、「彼らがどのように生きていたのか」ということを考えつつ稽古を進めています。

この物語には、血縁関係のある人たちは登場しません。みんな家族を失い、家もなくし、それでもなお生きようとする人々が集まっている。

私の演じる真田も、ばあさんや診療所で働く美代と一緒に暮らしていて、血のつながりはないけれど、まるで家族のように支え合っているのです。そんな中に松永が惹き込まれていく――。

その流れを自然に感じさせるためには、やはり真田の中に“人を惹きつけるエネルギー”が必要だと思いました。血縁ではないけれど、家族として受け入れたいという想い。それが彼の根っこの部分にある気がしています。

もともと、映画版では真田役の志村喬さんと松永役の三船敏郎さん、二人の年齢差はおよそ22歳。設定では志村さんが50歳前後、三船さんが28歳くらいで、ほとんど親子のような関係でした。ただ今回の舞台では、松永役の北山(宏光)くんと私の年齢が近い。ですから、親子というよりは兄弟のような関係性にしたいと思っています。

憎しみや対立ではなく、ぶつかり合いながらも心の底では互いを想っている。口では強く言い合っていても、どこかで深くつながっている――そんな「疑似家族」として兄弟げんかのような空気をお客様に感じていただけたらうれしいですね。

とはいえ、こうした関係性を稽古でがっちり固めてしまうと、逆に壊れてしまうので。だからこそ、最初の本読みや稽古の段階で、まずは全員が出会い、空気を感じながら、少しずつ形を探っていく。今はまさに、みんなで役を“ビルドアップ”している段階です。そうした作業がとてもスムーズに進んでいて、本当に手応えを感じています。

――大鶴さんはいかがでしょうか。

大鶴
今回の自分の役は、ある意味で物語全体の“対極”にある存在です。『スター・ウォーズ』でたとえるなら、ダース・ベイダーのような――みんなの幸せを許さない立場といいますか(笑)。

戦後の混乱の中で、夢や希望を見出そうとする人々が「光の集団」だとすれば、僕が演じる人物はその真逆にいる人間。舞台の中で異物のように存在し、彼らの明るさを映し出す“黒い鏡”のような存在だと思っています。

時代が変わっても、すぐに考え方を変えられない人間。けれど、その不器用さの中に“人間らしさ”がある気がします。

ただ、彼が単なる悪役というわけではなく、結果的には舞台全体の光を際立たせる存在でもある。僕が“黒い鏡”であればあるほど、他の登場人物たちの希望や再生への光が強く輝く。その対比が、この作品の持つ生命力をより鮮明にしてくれるのではないかと思っています。

父の遺した作品と向き合う――“反発”から“継承”へと変化した俳優としての原点

――大鶴さんは、俳優であり劇作家でもある唐十郎さんをお父様にお持ちですが、俳優として歩み始めた当初、ご両親からどのような影響を受けましたか? また、“自立”についてどのように考えていらっしゃったのでしょうか。

大鶴
実は僕、まったく“自立”していないんです(笑)。今も関わっている劇団で、父の戯曲をずっと上演し続けているくらいですから。いってみれば、親の遺した“財産”を食いつぶしているようなものかもしれません。

――大鶴さんは映像の世界でも活躍されてきましたが、そこにもご両親の影響はあったのでしょうか?

大鶴
そうですね。家が劇団そのもので、稽古場という環境でしたから、子どもの頃から“芝居”が当たり前にある生活でした。ただ、その空気に対して反発もあって。「親は舞台なら、自分は映像だ」と思って映像の道に進んだのも、反抗心からでした。

でも、映像の仕事のデビュー作も、父の脚本だったので。結局“七光り”で(笑)。反抗しようとしたけれど、逃れられないのです。

30歳を過ぎてからは、映像だけではなく舞台にも立つようになりました。そして、僕が40歳の時に父が病気で倒れて、事実上現役を退いたんです。それまでは、どこかで「親父には負けない」という気持ちがあって、父の作品には絶対に手を出さなかった。

でも、父が現役を退いた瞬間に、ふっと肩の力が抜けたというか。「じゃあ、親父の作品をやろう」と素直に思えて。それまではライバルのような存在だったのに、父が舞台に立たなくなると、不思議と“親父の作品を残したい”という気持ちが自然に湧いてきました。

――まさに、父と子の関係が変化した瞬間ですね。

大鶴
そうですね。それからもう13年ほど経ちますが、今でも父の戯曲を上演し続けています。自分が若い頃は反発していた父の世界に、今こうして関われていることが、不思議でもあり、ありがたいことでもあります。

“つかず離れず”の父子関係から生まれた、自分らしい俳優としての歩み

――渡辺さんも、著名な俳優(渡辺謙さん)をお父様に持つお立場として、ご自身のキャリアに何か影響を受けた部分や、自立への意識などはありましたか?

渡辺
うちは父が劇団を持っていたわけではなく、どちらかというと1人でやっていくようなスタイルで。もちろん最初は劇団で活動していましたが、その後は映像作品を中心に仕事をしていたこともあり、私自身、あまり“舞台俳優としての父”を間近で見る機会は多くありませんでした。

うちは、良い意味で“つかず離れず”の関係だったと思います。俳優としての活動に口を出されることもなく、特に何か言われることもなくて。だからこそ、逆に“近づきすぎない方がいい”と自分でも思っていました。何もないのに無理に近づいても仕方がない、という感覚があったのです。

僕も義丹さんと同じように、35歳くらいから舞台に立つようになったのですが、舞台を経験して「自分でもこういうことができるんだ」と思えた瞬間がありました。

それがきっかけで、最近は「こういう仕事をしている」「こんな舞台に出ることになった」と話すようになって。今回の『醉いどれ天使』でも、真田という素晴らしい役をいただけたということも報告しました。

以前は、正直言って、自分の仕事についてあまり話したくなくて。どこか照れくさくて、家族に報告することも少なかったですね。

迷いながらも歩み続ける――“好き”という思いが原動力に

――これまでのキャリアの中で、若手時代に挫折を感じたり、「もう辞めよう」と思ったりした瞬間はありましたか?

渡辺
それはもう、何度もあります。大学時代からオーディションにはよく落ちていましたし、父も特に「こうしろ」と言うタイプではなかったので、家に帰っても何か特別なアドバイスがあるわけでもなく、自分で考えるしかないという環境でした。

大学に行かせてもらってはいたけれど、就職するのか、それとも俳優としてやっていくのか――その選択もなかなか決めきれなくて。そういう意味では、若い頃からずっと“迷い”や“挫折”のようなものはありましたね。

でも、それを「乗り越えた」という感覚はあまりありません。どちらかといえば、“時間が解決してくれた”という感じでしょうか。傷が癒えるというほど大げさではないけれど、時が経つうちに自然と前を向けるようになるというか。

ただ、それを今の仕事に引きずるようなことはしたくないのです。過去は過去として受け止め、今できることをやる――そんな気持ちでいます。

――それでも俳優として活動を続けてこられた原動力は、どんなところにあるのでしょうか?

渡辺
「続けよう」というよりも、「続けさせてもらっている」という感覚が近いです。やっぱり稽古場に行くのが好きなので。あの空気の中で過ごす時間が好きで、舞台という場所でお芝居をさせていただけるのが本当にありがたい。

“仕事だからやる”というよりも、だんだんと「自分が生きている間に取り組みたいこと」「やりたいと思えること」が、この仕事の中にあると感じるようになってきました。

思い切った挑戦が拓いた俳優人生――“続けること”こそが成功の形

――大鶴さんは、ご自身のキャリアを振り返って、転機や苦労を感じた時期はありましたか?

大鶴
僕はデビューがすごく早かったんです。しかも時代的にもバブルの余韻が残る、テレビが一番勢いのある時期で。当時は“ベビーフェイス”というか、若手らしい爽やかな役柄をたくさんいただいていましたが、あっという間に通用しなくなりました。

年齢を重ねるにつれて、当時は「そろそろ大人にならなきゃいけない」という風潮があって。今のようにいつまでも若々しい役を演じられる時代ではなかったので、20代後半になると、若手らしい存在感が通じなくなってしまったのです。

そんな時、やけくそで挑戦したのが2時間ドラマでした。当時はまさに2時間ドラマ全盛期。でも、僕のようなベビーフェイスには、犯人役なんてとても似合わないと思っていたのです。

ただ、ほかに道もなかったので、「もうやるしかない」と思って出演してみたら――これが意外と楽しかった(笑)。たしか2930歳くらいだったと思います。やってみたらとても評判が良くて。

当時、2時間ドラマは毎週4作品ほど新作が放送されていた時代です。1年で100本以上も作られていたと思います。気づけば「犯人」「犯人」「刑事」「殺され役」「また犯人」みたいな感じで、月に何本も出演していました。

――かなり多忙な時期だったのですね。

大鶴
そうですね。刑事役もたまにありましたが、どうしても自分にはしっくりこなかった。「やっぱり僕は犯人側の方が合っているな」と(笑)。正直、いいラインの役というよりも、クセの強いキャラクターばかりでしたが、それでも“食べることができた”時代でした。今振り返ると、それがとてもいい経験でした。

当時は“やけくそ”で飛び込みましたが、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉のとおり、思い切ってやったからこそ新しい道が開けたのだと思います。その後、40代・50代と年齢を重ねるにつれて、自然とクセのある役が増えていきました。

――大鶴さんが俳優として長く活動を続けていく上で、モチベーションになっているものは何でしょうか?

大鶴
「これが目標だ」と明確に言えるものが、正直自分でももう分からなくなっているところがあります。でも、僕がすごいなと思う先輩方って、何かを“成し遂げた”というより、ただひたすら“ずっとやっている”。それが結局、成功の形なのではないかと思います。

だから僕も、「何かを達成するために頑張る」というより、“ずっと続けること”を大切にしています。

“足掻き続ける力”が道を拓く――変化の時代を生き抜くために

――まさに“継続”の力ですね。では、人生100年時代ともいわれる今、お二人が長く第一線で活躍するために意識していることはありますか?

渡辺
いや、それはもう……先輩にお願いしたいところですね(笑)。僕なんて、まだまだ道半ばもいいところです。僕もいまだに足掻いている最中なので。そもそも「成功」って何なのでしょうね? 役者における成功の定義って、明確にはない気がします。どの先輩を見ても、いまだに何かに挑戦し続けているので。俳優という仕事に“ゴール”はないのかもしれません。

大鶴
そう思います。母がよく「石にかじりついてでもやっている俳優が最後に残る」と言っていました。たとえスターでも、歌い手でも、積み重ねに勝るものはない。

渡辺
結局のところ、足掻き続けなければならない仕事なんです。やればやるほど、“ゴールがない”といいますか。

大鶴
僕は10代の頃からこの仕事をしていますが、同世代の仲間たちの中にはもう辞めてしまった人もたくさんいます。逆に、途中からこの世界に入ってくる人もいますし。そうやって人が入れ替わりながらも、僕はずっとここにいる。

不思議なことに、この世界は5年ごとにゲームが変わるようなところがあります。5年前に「勝っているな」と思った人が、今はそうでもなくなっていたりする。逆に、静かに続けてきた人が、いつの間にかまた注目されていたりもするのです。

だから、沈んでいる時にどれだけ“かじりついていられるか”が大事なのだと思います。悪い時期に辞めてしまう人が多いけれど、続けていれば、また流れは変わるので。

舞台とともに生きる日々――休息と集中のバランスを保つ方法

――多忙なスケジュールの中で、お二人が体力やメンタルを保つために意識されていること、習慣にしていることはありますか?

渡辺
特に「これ」といった習慣はなくて。というのも、舞台をやっている期間は、完全にオフになる時間がほとんどないのです。常にどこかでセリフが頭の中に残っていて、まるで耳の奥で“ピシャピシャ”と響いているような感覚がある。

舞台って、一度関わると“作品と付き合う運命”みたいなものがあって、逃げられないんです。だからもう、その期間は「骨の髄まで、死ぬまでこの作品と付き合おう」という気持ちでやっています。切り替える、という発想がそもそもないので。

――舞台中は“気分転換”というより、作品そのものと生きている感覚なのですね。

渡辺
そうですね。気分転換しようとしても、結局頭の中から作品が離れないので。

大鶴
ただ、やっぱり“休むこと”は大事だと思います。「眠れなくなってしまう」という俳優の方もいらっしゃいますが、僕はとにかくよく寝るタイプ。これは本当に大事なことだと思います。

渡辺
僕も帰って5秒で寝られることもあります。特に舞台の初期は、頭の中がフル回転していて、毎日が脳の大改革のような状態なのです。台本を覚え、稽古の中で修正し、また組み立て直していく。そのスクラップ&ビルドの過程は、実はものすごく脳が疲れますし、眠くなるのは当然で。

でも不思議と、寝ている間にセリフが定着していたり、整理できていたりする。だから僕にとって、睡眠は最高のリセット方法です。

大鶴
それから、僕は早起きですね。毎朝4時半には起きます。

渡辺
早いですね!

大鶴
朝方の時間が好きなので。誰にも邪魔されない、静かな時間。昔は夜型だったのですが、50代になってからはすっかり朝型に変わりました。

俳優としての幅を広げる――“挑戦”を通じて演技を磨く

――お二人は俳優としての活動に加え、監督・プロデュース・執筆など、他の分野にも挑戦されています。俳優業以外での挑戦はキャリアや人生にどんな広がりをもたらしましたか?

大鶴
僕の場合は、基本的には“演技のため”です。決して役者から別の道に行くためのものではなく、あくまで俳優として自分をブラッシュアップするための活動の一つ、という感覚です。

たまに演出をやることもありますが、やっぱり98割は役者なので。でも、演出をしてみるとすごく気づくことが多い。というのも、役者は、つい自分のことしか見えなくなるのです。カメラの前や舞台の上に立つと、視野がどうしても自分中心になってしまう。演出側に回るとそれがよく分かります。

こっちから見ると簡単な謎解きのようなことが、いざカメラの前や舞台上に立つとまるで見えなくなる。なので、芝居で壁にぶつかった時には、あえて“演出側に立ってみる”ことがあります。

そうすると、不思議と今まで解けなかった謎がスッと解けることがある。もちろん、解けないこともありますが(笑)。

――渡辺さんは今後、どんな分野に挑戦してみたいと考えていますか?

渡辺
僕もやっぱり、最終的には“俳優に還元できること”が一番です。おそらく今後も様々なことに手を伸ばしていくと思いますが、それは全部、役者としての自分を深めるための挑戦。むしろ、今の時代はそういう“制限を設けない姿勢”の方が大事なのではと感じています。

「好き」が原動力に――情報社会を生きるすべての人へ

――最後に、本記事の読者であるビジネスパーソンの方々へ向けて、それぞれメッセージをいただけますでしょうか。

渡辺
僕も普段から感じていることですが、今の時代、“情報が溢れすぎている”と思います。どうしても頭で処理することが多くなり、あらゆることを“理屈”で判断してしまいがちだなと。だけど、実際にやってみたら全然違った――そんな経験もあるはずです。

この作品が描いているのは、戦後まもなくの混沌とした時代。あの頃の人たちは、国の行く末も、社会の仕組みも何も分からないまま、ただ“生きよう”としていた。それでも彼らには、強烈な生命力と、生き抜くエネルギーがあったのです。その力こそが、日本の戦後復興を支えた原動力になったのではないかと思います。

今は便利で、合理的で、効率を求める時代です。でも、たまには一度その“情報”を遮断して、自分の感覚を大切にしてほしい。頭ではなく、心や体で感じること。その中にこそ、想像を超える発見や力があるのかなと。

何事も“合理的に考えすぎないこと”が大事だと思います。不条理の中にも、ちゃんと“力”や“ドラマ”があるので。この舞台では、戦中・戦後という極限の状況の中で、それでも希望を見出そうとする人たちが描かれています。それを観ていただくことで、今の時代との違いが見えてくるのではないかなと思います。

「人間は70年、80年でこんなに変わるんだ」と感じるかもしれませんし、同時に、「変わらず大切なもの」もきっと見つかるはずです。

大鶴
僕らの仕事は、そもそも“仕事”なのかどうかもよく分からないので(笑)。僕はこれまで会社に勤めたことがなくて、いわゆるサラリーマンのような「勤務」という感覚は持ったことがありません。

もちろん、途中で「もう辞めたい」と思った現場もありましたし、反対に楽しかった作品もたくさんあります。でも、不思議と“労働”だと思ったことは一度もないのです。

この年齢までしつこくやってこられたのは、やっぱりこの作業が“好き”なんです。この仕事は大変なことの方が多いですが、それでも、気がつくと続けている。「好きでないとできない仕事だな」と、最近特に思うようになりました。

昔は“好きだ”と認めるのがなんだか恥ずかしくて、あえて言わなかったのですが、今は、素直に言えるようになりました。「結局これしか好きなことがない」と、堂々と言えるようになったのは、年齢を重ねたからこその強みかもしれません。

この世界に入ってから何十年も経ちましたが、ようやく“これでいいんだ”と思えるようになってきた。その感覚が、今の自分を支えてくれているのだと思います。


撮影:Jumpei Yamada
スタイリスト:久保コウヘイ(QUILT)
ヘアメイク:大塚貴之(Rouxda)

【渡辺大】
スーツ\¥103,400(ボブ/タキヒヨー☎︎03-5829-5671)
その他スタイリスト私物

【大鶴義丹】
ジャケット\¥495,000(イザイア/イザイア ナポリ 東京ミッドタウン☎︎03-6447-0624)
その他スタイリスト私物

渡辺大 俳優

1984年81日生まれ、東京都出身。2002年にテレビ東京系ドラマ『壬生義士伝~新撰組でいちばん強かった男~』で俳優デビュー。『男たちの大和/YAMATO』、『クローズZERO』、『風が強く吹いている』などの映像作品から、「罠」、「Take Me Out」などの舞台作品まで多数の作品に出演。

大鶴義丹 俳優

1968年424日生まれ、東京都出身。1988年 映画『首都高速トライアル』で俳優デビュー。C X「君の瞳に恋してる」、TBS「あの日の僕を探して」などの映像作品から、「リア王2024」、「ジャガーの眼」などの舞台作品まで多数の作品に出演。

『醉いどれ天使』 

【東京公演】
2025年11月7日(金)~23日(日)
明治座

【愛知公演】
2025年11月28日(金)~30日(日)
御園座

【大阪公演】
2025年12月5日(金)~14日(日)
新歌舞伎座

原作: 黒澤明 植草圭之助
脚本: 蓬莱竜太
演出: 深作健太

出演:
北山宏光
渡辺 大 横山由依・岡田結実(Wキャスト) 阪口珠美 / 佐藤仁美 大鶴義丹
堀野内 智 神農直隆 生津 徹 宮地大介 葉山 昴 松井朝海 桑畑亨成 / 荒井洸子 片岡正二郎
西川裕一 八木橋華月 浅倉智尋 奥富夕渚 夕希奈

公式サイト:https://www.yoidoretenshi-stage.jp

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